香象承伝14「變葉天竺葵 02」

◆流行の始まりから第一次流行
明らかな流行は明治中期頃からで、西洋花卉園芸の注視とともに葉変天竺葵にも注目が集まるようになりました。第一次流行は大正3年(1914)から5年頃で、小田原の辻村農園が仏国から各種を大量に導入し、愛好家に向け販売しました。価格は安いものでも15銭、高いものは5圓。大正2年(1913)1圓は現在の1080円です。5圓とはいかに高価であったかがわかります。これにより葉変天竺葵の人気が上がるとともに価格が高騰し、根のある苗で20~30銭くらいのものが、切り枝で3~4圓で取引されるようになってゆきます。

この頃には和名の改名が一般的になり、横浜植木株式会社の輸入品種で、二色葉のMis.Parkerは「神代」、HappyThoughtは「谷間の雪」などに改名されます。多肉植物の世界でも同じことが行われていますが、導入時の横文字の学名/園芸名は一般に受け入れにくいため、日本的名称に変えて発表したことは周知の通りです。

◆第二次流行へ
この第一次流行の頃に、それまでなかった黒い葉の異色種「黒雲龍」「紫雲龍」の小型矮性種が輸入発表され、その後これらを元親とする複数の交配種が作出されるようになります。明治後期から大正初期までは大葉系のものが主流でしたが、それに代わる新種の矮性種が脚光を浴びたことから急速に人気が上昇し、第二次の流行が生まれます。当然ながら入手難となり、価格の高騰を招いたことがさらに流行に拍車をかけ、愛好家の参入で各地に同好会が発足しました。昭和7年に「大日本葵協会」が設立されると、一部の希少種はなんと一株何百圓の高額で取引されるほど値が高騰しました。昭和9年東京の物価は御徒町から神田駅までの切符代5銭。東宝劇場の地下のグリルで夜の定食1圓。で単純に物価が2500倍とすると1圓は現代で2500円です。当時の「一株何百圓」を2500倍すると250万円に?なります。

金額を問わず入手・売買されるほど加熱していくと当然扱う業者が増え、各地に投機的コレクターが現れ出すと、一部の極彩色有名品種などは昭和10年頃には何と一株千数百圓もするものもあったようです。(注:当時大卒初任給90円、米10キロ2円50銭)こうして交配を重ね新品種が次々発表されたことにより、局所的だった流行が日を追って拡大し全国的流行となりました。当時、葉変天竺葵は江戸園芸にみられる変化朝顔や万年青等と同様、飾り鉢にもこだわり高価な猫足絵付け鉢に植えて飾られていました。

流行の最盛期には各同好会は会の威信と名声をかけて絢爛豪華な名鑑を相次いで発行します。名鑑は品種の人気をはかる縮図でもあり、業者が出す名鑑はカタログも兼ねたので、種の「格」を知る重要な役目を果たしました。

◆大正四年以後発行の葉変葵銘鑑に挙がった著名種。昭和二年から九年は最盛期。
富士の雪、金世界、鳳凰錦、丹頂、神代麒麟、大虹、錦旗、谷間の雪、錦鶴、真鶴、世界の図、漣(さざなみ)、千代田錦、八千代錦御所錦。

◆昭和二年:丹頂、谷間の雪、錦旗、錦鶴、千代田錦、世界の図、栄冠、磯千鳥。

◆昭和四年:常磐、古金欄、昭和錦、戦勝錦、御所錦、千代田錦、錦鶴。

◆昭和七年:黒雲龍、紫雲竜、常盤錦、漣、白鳥、花村錦、千代田錦、八千代錦、丹頂、瑞雲錦、金蝶の舞、黒雲錦。

◆昭和十四年:千代乃誉、黒雲錦、錦山、君が代、真鶴、麒麟瑞雲錦、漣、常磐、吹雪の松

◆昭和十七年(※戦時中の発行は驚異です。):光山錦明山錦、漣岩戸の舞、麗山。栄冠、秀峰錦、錦山、真鶴、金麟。

◆昭和三十三年:宝山、秀山、錦秋山、浅間錦、篠国、春山、麗山、玉山錦。

(注:青色その1に掲載済、緑色は今回掲載の写真です。名前が重複しているものは人気維持種になります。)

◆流行のその後
終戦後は生活を取り戻しつつある中で、園芸家は高級種より斬新で華麗な花ゼラニウムに傾倒してゆき、栽培・繁殖の難しい矮性変葉系は次第に衰退していきました。

その中で最後まで孤塁を守ってきた愛知県岡崎市の斑入り植物専門園、旭植物園3代目園主の加藤政治氏は平成25年4月までカタログを発行し、この変葉葵の保存と販売を行っていました。同園では大葉系はもとより中葉、本命の小葉系高級種も品種を揃えていました。

どの園芸世界も同じですが、希少種は繁殖に全力を注ぐため、カタログに搭載せず親木の販売はしないのが通例です。氏曰く、「本種は生育遅鈍な種も多く、特に小型種ほど保存が先行し繁殖に至っても困難の上、全国的に見ても少数の愛好者を除き保存しているところは皆無である。貴重な品種を後世に残すことが園芸家の使命である。」と言っておられました。

この記事を書いた人

七宝樹
タイトルは「こうぞうしょうでん」と読みます
長野在住
多肉含めて植物全般「今昔」いろいろを語ります